そっと頭にのせられた手の持ち主は、レイと同じ顔に硬質な仮面をつけた男だった。そのときまで、レイに触れる手というものは薄いゴムの手袋に覆われた温かみのかけらも感じ取れない無機質な物体でしかなかったので、その手のひらの温かさに酷く驚いたことをよく覚えている。触れてくるのは無遠慮に体を撫で回し細い腕に注射針を刺し込み得体の知れないものをその体に流し込んでくる無機質な掌だけ。それは幼いレイにとって恐怖の対象だった。少しずつ自分が作り変えられていくような恐怖。もともとの形すら忘れてしまいそうな。絶望すら知らない生活の中、突然現れたその男はレイの中の全てを鮮やかな色で瞬く間に塗り替えていった。
彼は何時もレイを側に置いて何処へいくにもレイの手を引き名前を呼び、優しく笑った。彼はレイの前で仮面をつけなかった。レイはそう望んだ。彼が自分の前でだけそのままの姿を晒すという事実が無性に誇らしく嬉しかった。それは幼い子供が親を独占しようとする感情に似ていたのかもしれない。だたそれまで親どころか、何一つとして己の物を持ったことのないレイはその感情は理解が出来ず、戸惑うと同時に己を酷く恥じた。独占なんてなんて浅ましい。自分はなんて愚かなことを考えていたのだろう。一度そう考えてしまうと途端に居た堪れなくなってしまい、レイはそれまで引かれていた手からするりと逃れる。そのまま俯き顔を上げられないでいるレイに彼は常と変わらぬ優しい声音でレイの名前を呼び、頭に触れた。それに促されるようにおずおずと顔を上げると、やはり彼は微笑んでいて、レイはとても許されたような気持ちになった。
彼の手のひらはレイに様々なものを与えた。あのラボにいたままなら一生知ることの無かっただろう、暖かな気持ち。慈しみの心。花の名前、涙の色。それら全てがレイの心を満たし、染め上げ、美しい希望と、逃れられぬ絶望を教えた。
無の意味を持つレイに全てを与えたのは彼だった。けれども希望を知るという事は、同時に絶望を感じるようになるということでもある。信用しなければ裏切られない、それと同じように持っていなければ奪われることなどなかったのだ。美しい世界。優しい朝。静かな夜。暖かな喜び。全てを与えたのは彼だった。けれども同時にレイは絶対的な強さを失くしていた。気付いたのは彼が死んで、暫くしてからだ。愕然としたことを、よく覚えている。
END
【かなしいしあわせ】
2005.10.16-Copyright (C)Baby Crash