どういうつもりだよ、というのが正直な気持ちだった。
先ほど自分を殴り大事な妹に泣きそうな声を出させた少年、枢木スザクが今ルルーシュの前で頭を下げている。その余りの身の変わりように一瞬何かの罠かと思ったが自分にそんな事をしてどうなるのだと直ぐにその考えを打ち消す。彼にとって自分を虐げるなんてことは至極簡単なことなのだ。自分はこの国にとっても祖国にとっても価値の無い上辺だけの人質なのだからどう扱われたって文句は言えない。先のように彼に向かっていくだなんて本当はしてはいけなかった。けれど妹に付いた精一杯の嘘をばらされてしまったらどうしたって堪えることなんて出来なかったのだ。幼い怒りの前には王宮で養った矜持なんてものは無力に等しい。
ルルーシュは自分が虐げられるのはまったく構わなかった。十年足らずの人生で己の立場と言うものはいやと言うほど理解しているつもりだ。敗者は惨めな思いをする。それがあの世界の掟だったし事実ルルーシュは実の父親に敗北した。その時点で自分に何かを主張する権利などないと理解したし諦めてしまった。けれどもそれは自分自身だけのことだ。何の関係もない妹にはその欠片だって惨めな思いはさせたく無かったし、そんな状況に自分が置かれているだなんて気づいて欲しくなかった。妹が最後に見たのは母の血の赤だ。そんな世界に絶望して彼女は光を放棄してしまったのだから、せめてその閉じた世界を兄の自分が護らなければならないと思った。確かにその考えは浅はかでいずれ露呈する嘘だったかもしれない。しかし慣れない異国の地での新しい生活の場を無邪気に尋ねる妹に残酷な現実など見せたくなかったのに。
こちらの心情などまったく組まず真実を暴力的な言葉で暴きたてた彼に我慢が出来なかった。
しかしその彼は今ルルーシュに頭を下げている。まったく状況が理解できずにルルーシュの思考は混乱を極めていた。だって頭を下げると言う行為は礼儀を示すと共に謝罪の意を伝えるものだ。特にここ日本ではその傾向が強いと聞いている。それなのに何故あの少年が自分に向かってそんな格好を取っているのか。先ほどの少年の様子を思い浮かべるほど謝罪と言う言葉には遠い存在に思えてならない。相手の意図がまったく掴めないルルーシュは、くるくると緩いカーブを描いている少年の茶色い髪をただぼんやりと見つめることしか出来なかった。こういうときブリタニアではどうしていたっけ。考えても出てくるのは歳の離れた兄や己と対等ではない従者といった人間に対する対応ばかりでそういえば自分には屈託なく友人と呼べる存在が一人も居なかったことに今更気づかされる。あの国での記憶を探っても出てくるのは、亡き母と活発だった妹、それと年下にムキになってチェスを挑んだ変わり者の兄の姿だけだ。もっともそれはもう全部無くしてしまったのだけれど。
「どうかした…?」
「……っ」
不意に掛けられた声に今自分が置かれていた状況を思い出し、一瞬でも感傷に浸っていた自分に愕然とする。今自分は何を考えていたんだ。何を懐かしんでいた。全部捨ててきたはずだろう。母も昔の妹も兄も姉も、全てあの離宮の母の亡骸と共に。それなのに。
咄嗟意に返事をしようとしたが喉が詰まって声が出ない。枢木スザクの前でこんな無様な姿を晒し続けるわけにはいかないのに。ここに自分たちの味方なんて誰一人としていないのだ。妹は自分が護らないといけない。それなのに。
混乱している自分を気遣うような目で見る枢木スザクがいる。さっきルルーシュを殴った掌で背中に触れ宥めるように擦ってくれる。嘘を暴いたその口でルルーシュを慰める。
「もう殴ったりしない、俺が悪かった。本当にごめん」
もう何を信じたら良いのか分からない。頭が冷静に働かず、何も言葉を返せないでいるルルーシュにスザクはそれ以上何も言わず黙って傍に居るだけだ。何の言葉も求めずルルーシュが落ち着くのを待つ少年に先ほどの荒々しさは欠片もない。ゆっくりと背中を撫でる掌の温かさに、もう二度と触れてはもらえない母の温もりを思い出してルルーシュは涙が零れそうになるのを必死で堪えた。(どうして死んでしまったの)(どうして殺してしまったの)(ただ三人で暮らして居たかっただけなのに!)二度と泣かないと決めたのに。妹の前でも、ましてやこんな初対面の少年の前でなんて!
それでも人の温もりは頑ななルルーシュの心を脆くした。妹の前では泣けなかった、泣くわけにはいかなかった。まさか護るべき存在の前で崩れ落ちることは出来ない。けれど彼、枢木スザクは違う、ルルーシュの護るべき相手ではない。それどころか先ほどまで相成れなかった相手だ。けれど今彼がルルーシュの誰より傍に居てくれている。それがどれ程ありがたいことか。
独りではないという事がこんなにも暖かいなんて忘れていた。
辺りはすっかり日が落ちて月が昇る前の暗闇は二人の輪郭すら曖昧にしてしまっている。その暗闇にまぎれて、ルルーシュは母の名を呼んだ。それは母が死んでから初めて零れた言葉だったかもしれない。母さん、と闇に溶けそうなそれに堪えきれず震えた肩をスザクがずっと支えてくれていた。
***
暫くして落ち着いたルルーシュはそれまでの己の所業を振り返って青ざめた。なんという痴態をさらしてしまったんだろう!あんな分別も付かぬ子供のように初対面の親しくも無い少年に縋るなんて!居た堪れず、いっそのこと夢として多少強引にでも忘れてしまいたかったが笑顔のスザクがそれを許さない。スザクの持ち込んだ明かりで照らされた土蔵の中で彼は非常に御機嫌だ。にこにこと屈託なく笑う顔は好感が持てたし彼が悪い人間ではないと伝えていたが、先ほどの気まずさでルルーシュはスザクに対して向き合うことが出来ないで居た。今も膝を突き合わせて座っていると言うのにルルーシュの顔は横を向きスザクから逸らされたままだ。それにスザクが笑いを隠し切れない声で話しかける。
「大丈夫、俺、誰にも言わない」
「……そもそも、君が僕の事なんて誰に言うって言うんだよ…」
「お前の妹とか、俺の家のほうに居る女の子にとか?」
「女の子?」
「神楽耶っていうんだ、お前たちに逢いたいって五月蝿いんだよ」
「ああ。皇神楽耶嬢か」
「神楽耶をしってる?」
出された名前に枢木の家に居るという少女の情報が合致する。もっとも本宅のほうに居るものだとばかり思っていたから彼女に対する情報はルルーシュも余り持っていないが。
頷いたルルーシュにスザクの表情が目に見えて不満そうな色に染まる。その原因がルルーシュには掴みきれない。だって同年代の少年と話をするなんてほとんど生まれて初めての経験なのだ。飾らない、年相応のスザクの一挙一動がルルーシュには新鮮で珍しいものだった。だから不満を隠しもしないスザクの言葉もルルーシュにとっては理解しがたいまでに純粋な感情だった。
「神楽耶ばっかり、ずるい」
「殿下だけじゃない、僕は君のことも知ってる、君は枢木――」
「!!、っ待った!!」
その言葉に彼が拗ねていたことを知り、想像もつかないその感情に急に彼が可愛らしく見えてきてルルーシュは彼に気づかれないようにこっそり微笑んだ。なんだ、案外普通の奴じゃないか。スザクの素直さはルルーシュの心に染みていくように広がってゆく。それは決して嫌な気持ちではなくてどこか暖かさを感じさせるものだ。
彼が満足するのならと思いルルーシュが名前を呼ぼうとしたとたんスザクが慌てたようにルルーシュの口を掌で塞いだ。突然の行動に慣れないルルーシュは戸惑うことしか出来ない。こいつは一体何がしたいんだろう。僕が自分の名前を知らないことを怒ったんじゃないのか。精一杯考えたって分かるものでもなく困惑の表情を浮かべるルルーシュに気づきスザクは慌てて謝り手を離す。そうして少し極まり悪げに、それでもしっかりとした顔でスザクはルルーシュに向き合う。
「名前は、お互いに自分で名乗るものだ。誰か他人に教えられたものを言うものじゃない」
そう武術の先生が教えてくれた、と、言うときにはどこか誇らしげな様子を隠しきれないでスザクはルルーシュに教えた。その言葉にルルーシュもスザクの真意を理解するのと同時に、彼の人に対して精一杯真摯に向き合おうとする姿勢に好感を覚える。そうだ確かに名前は書類の上の知識として覚えるものなんかじゃなかったのに、いつから忘れていたんだろう。
「俺は、枢木スザク」
お前は?と問いかける瞳にルルーシュも頷いて応える。もう前のような彼に対する意地はどこかへ消えていた。彼は確かに自分に対して誠実だった。それだけで今は信用してもいいだろう。
「ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア」
ルルーシュ、と確かめるように教えられた名前を呟きスザクは嬉しそうに微笑んだ。そしてそのまま瞳に嬉びを滲ませスザクはよろしく、と手を差し出す。その手を取る事に戸惑いは無い。よろしく、スザク。ブリタニアの社交界で交わした心のないそれとは全く違うことが嬉しくてルルーシュが綻ぶように笑うとスザクが少し頬を染めた気がした。そのまま手が触れ合って結ばれる。それで彼が初めての友人になった。
騎士は目覚めた!
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