兄に呼ばれ出向いた宮は数ある離宮の中でもとりわけ豪奢な造りの宮殿だった。第二皇子が好んで使うその宮はその華やかさの中にもどこか慎ましさが感じられる上品な場所で、ルルーシュも好ましく思っている。決して放り出されているわけではないのだが自然に伸びることを許された植物は生き生きと枝を伸ばし美しい庭を作り出している。それは母マリアンヌの好む美しさに似てルルーシュの琴線に触れた。宮の持つ荘厳な美しさとその庭にある自然の魅力に心は躍った。チェスの駒を進めつつチラと横目に入る緑の美しさがルルーシュは好きだった。それを彼に気づかれているとは思いたくないがシュナイゼルがルルーシュを呼ぶのはこの宮が多い。この日も同じようにチェスの相手を求めるシュナイゼルに呼ばれルルーシュは離宮の扉を叩いた。
しかし中に人の気配は無く、そこで約束には少し時間が早かったことを知る。兄は勝手に待つことを咎めるような人間ではなかったので適当に椅子に腰掛けて庭を眺めた。春の日差しが大きな硝子窓から注いでいて、ルルーシュが意識を持っていかれるのにそう時間は掛からなかった。










***










ふと他人の気配を感じて眠りの海から引き上げられる。一瞬、兄がやってきたのかとも思ったがそれにしては気配が妙だ。眠っているルルーシュを起こすそぶりも見せずただ近くに気配だけを教えている。兄とは違う空気を纏う人間に疑問を抱きつつ薄っすらと瞳を開けば見知らぬ男がそこに居てルルーシュは身を硬くする。仮にも皇族の集う最奥の離宮で気が緩んでいたのかもしれなかった。ここは兄の離宮でそう易々と侵入できる場所ではない。しかし今、ルルーシュの目の間に居るこの男は。誰だ。全く見たことのない姿にルルーシュは一瞬で霞が掛かった頭を覚醒させる。その紫電にはっきりと警戒の色を浮かべたルルーシュに男は酷く愉快そうに笑う。そうして未だ座ったままのルルーシュに近づき、腰を曲げぐっと顔を近づける。これほどまで他人と近づいたことなど無かったルルーシュは、目の前で細められる薄水色の虹彩に息を呑み、漏れそうになる悲鳴を必死で堪えた。相手が誰かもわからない状況で無様な体を晒すわけにはいかない。藤色の髪はブリタニア宮でも見慣れない色で記憶には無いものだったが目の前の男は自分を知っているらしくまじまじと観察するような視線を不躾に向けてくる。お互い黙り込んだまま少しの時間が過ぎ、口を開いたのは男が先だった。




「ルルーシュ殿下ですかぁ?」




こてん、と奇妙な音がしそうな風に首を横にひねり男は尋ねる。それは酷く不思議な音だった。優しい母の声とも慈しむ兄の声でもなければ機嫌を伺う臣下の者でもない。ただ事実だけを求める純粋な好奇心だけを教える子供のようなそれに気づけばルルーシュも頷いていた。こくん、と促されるまま首を縦に振った自分に男は更に笑みを深くする。それは先の色の無い微笑みではなく、どこか兄のものに似ていてルルーシュは無意識に肩の力を抜いた。嫌な人間ではない。害を与える気も無さそうだと判断して恐る恐る口を開く。男は何も言わない。




「貴方は、誰ですか」
「さて誰でしょうお姫様」




質問に質問で返されたことと姫呼ばわりにムッとして、その表情のまま男を見上げれば幼い子供の素直さに彼は益々愉快そうに笑みを深くする。そのどこか不思議めいた笑顔は妹に読み聞かせた物語に出てくる可笑しな猫を思い出させる。猫はもう一度その顔で微笑みかけたあと徐にルルーシュの手をとった。その仕草が余りにも自然で堂々とした風なのでルルーシュは思わず振り払うのも忘れて男の手に見入る。




「ああ、シュナイゼル殿下の仰る通り、綺麗な黒だねぇ」
「え、」




唐突に出された兄の名に身を乗り出そうとするがそれもやんわりと押し止められる。そして男の意図を汲めずきょとんとした表情のルルーシュにまた一つ笑みを落とし、未だ取られたままだった手を恭しく掲げた。己の掌を納める男の細く白い指先に、彼は軍人ではないのだろうな、と場違いなことを考えている自分に気づく。そうしてゆるりとした仕草で男がルルーシュの指先へ唇を近づけてゆく。その仕草は覚えがある。ああ、確かこれはなんと言ったか。




「殿下の大事な宝石さん、貴方にはもう騎士がいらっしゃるのかな?」
「僕に騎士を持つ権利は与えられていません」
「権利!随分つまらないことを知っているんだねぇ!かわいそうに!」
「可哀想…?」
「ええ、ええ可哀想ですとも殿下!権利だなんてそんなもの、結局あちら側の都合です」
「……ごめんなさい。僕には少し難しいお話のようです」




そうだこの男の振る舞いは騎士が絶対唯一の主に忠誠を誓う姿に似ている。しかしどうしてこの男が自分に膝を折るのかがわからない。
これ以上の話は無意味だ、そう判断して子供の仮面を被り無知の振りをして微笑んだルルーシュに男は尚満足そうに口の端を吊り上げて笑っている。「本当に賢いお人だ」そう動いた口には見ない振りを決め込むが視線でどうしてと訴えれば男はそれまで貼り付けたようだった笑みを初めて崩した。薄っすらと細められた薄水色の瞳には人間的な暖かさがあり先ほどまでの道化のような気味の悪さは感じない。思わずその色に見入ってしまいルルーシュの反応が遅れる。それを予想していたのか。男は中断していた作業を再開させるような自然な動きで再びルルーシュの指先にキスを落とそうとした。それをなぜか振り払うことも出来ずまるでスローモーションの動画を見るような心地でルルーシュは目を細める。


が。


まさに忠誠の誓いが男から告げられるというその瞬間。鈍い音が響いたかと思うとルルーシュの視界から男の姿は消え、代わりに待ちわびていた兄の姿があった。それまで男が膝を付いていた場所を無表情に見下ろす兄、シュナイゼルの自分と向き合うときにはあまり無い表情にルルーシュは少し疑問を覚えるが今はそんな事よりも喜びが勝る。




「シュナイゼル兄上!」
「ルルーシュ、すまなかったな。だいぶ遅れてしまった」
「いいえ!そんな、お待ちしていました!」




駆け寄るルルーシュを受け止め軽々と抱き上げたシュナイゼルは腕の中の弟に優しく微笑む。公の場では決して見せない、限られた兄弟のみに向けられるその表情は柔らかく、ああ何時も通りの優しい兄だ、とルルーシュの心を溶かした。抱き上げられていることで近くなる距離に、まるで甘えていいのだと言われているようでルルーシュは自然と表情を緩めはにかんだ。黄金と漆黒が魅せる一枚の絵のような情景に見るものが居たのなら思わず見惚れていただろう、穏やかな兄弟の時間がそこに広がっている。しかしこの場に、そんな情緒を持ち合わせる者はなく、代わりにそれを打ち破るものが一つ。




「ちょっと殿下〜、これはあんまりじゃあないですかあ?」




足元、そうルルーシュが抱き上げられている兄の足元から抗議の声が上がる。自分たちの遥か下から上がるその訴えに二対、二組の紫電は揃って訝しげな色を向けた。
ああそういえば。忘れてた。
兄弟の心の声は見事に揃ったようでルルーシュはさすがにそれを音に乗せることはしなかったがシュナイゼルは容赦なくその言葉を地面に座り込む藤色の男に浴びせかける。




「ふん、人が席を外している隙に弟を唆そうとした奴に人権などないぞ」
「あは!ひっどいなあ!僕は例に倣った挨拶をしようとしただけですよお」
「ははは。面白くない冗談だ。社会的に死にたいか」




兄の常に無い気安さや、男の遠慮の無さに二人がそれなりに親しい間柄であることを察するがそれ以上は想像の域を出ない。ルルーシュは早々に思考を諦めて大人しく二人の冗談とも本気とも取れない言葉の応酬に耳を傾け兄の意識が戻るのを待つことにした。
自分を抱き続けてくれている兄の腕に体を預け伝わる温もりに再び眠気を誘われて瞳を閉じれば、あの男が兄に蹴り飛ばされる寸前。本当に一瞬だけ男の唇が触れた指先が、訪れるまどろみの闇中で確かな熱を持って存在を主張していた。

















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