ルルーシュはスザクにとって掛け替えの無い友人であると同時に自分が触れることの出来ない護るべき美しいものだった。スザクの眼にルルーシュは何者にも代えられない至上の存在に写っていたし、それは変わり様のない事実だ。スザクは彼以上に美しいものを知らない。それと同時にそんなものが存在しえ無いという事にも気づいていた。彼の濡羽の様な漆黒の髪は日本人であるスザクでさえ持ちえぬものだったし純度の高い紫玉のような瞳に射抜かれれば七年たった今でもスザクはぼんやりと夢を見ているような気持ちになってしまう。それに彼の美しさはなにも清らな外見だけに言えることではない。彼の優秀な頭脳は何時だって物事を考えるのがあまり得意ではないスザクに打開策を与えてくれたし、そして何より彼は自分の手に落ちてきた人に対してはどこまでも真摯で優しい人間だった。
スザクは彼が彼の最愛の妹へ優しい眼差しを向け慈しむ声音で語りかけているのを見ているのが幼いころから大好きだったのだ。その姿を見るたびに、同じ年月を生きてきたというのに人間というものは此処まで差が出きる物なのかとそのころの自分の横柄さを省みて少しだけ恥ずかしくなることさえあった。
そして彼はスザクに対しても同じように微笑み心を砕いてくれた。それがどんなに嬉しかったことか!自分が話す言葉に穏やかに耳を傾け上品に笑う彼を見るたびに、先に走って行くスザクを彼が追いかけてきてくれる、その度にスザクの心は幸福で満たされていた。彼は自分を追いかけて来てくれている、自分は必要とされている。高い木に無理に登って降りられなくなった彼を下で受け止めたときはまるで彼の騎士になったような心地だった。同い年のスザクに簡単に支えられている己に薄っすらと頬を染めたルルーシュを見てスザクは誓ったのだ。護るんだ、他の誰でもない自分がこの存在を護るんだ。
彼が荒野の中を文句一つ言わず妹を背負い気丈に歩き続けている姿はスザクの心の深いところで神聖な景色のように記憶されている。
涙を拭ってくれた少女の柔らかい手と、立ち止まった自分を叱咤してくれた彼の声が何時までも頭から離れない。あの時自分は指導者の息子として国民を護れない不甲斐なさに泣いていたのではなかった。あれはそんな綺麗な涙ではないのだ。だってあの時の自分は一万の国民よりも、たった二人を護れた幸福にただ歓喜して泣いていたのだから。
彼が妹へ向ける美しさを護れたと思えばあんな死体だらけの、緑豊かな土地の見る影も無い姿すらも何でもないことにすら思えたのだ。それを二人は知らない。スザクは隠した。あんなに美しい二人、彼に、自分の手がこんなに汚れてしまったことを知られたくない。己の父親の血で紅く染まった掌に動揺し、涙を流して父に駆け寄ったその瞬間でも自分の頭のどこか片隅には、これで彼を護れたのだという安著する気持ちがあったのだ。これで彼はスザクの前からいなくなることは無くなった。あの美しい光景がスザクから奪われることはないのだ。
スザクの罪は秘匿された。自分はそれに抗うように死による厳罰を求めたがそれは絶対正義におけるものでなくてはならなかった。枢木スザクは誰が見ても正義により死んだのだと思われなくてはならなかったのだ。スザクに笑いかけてくれた彼、ルルーシュが自分を誇りに思ってくれるような、そんな罰をスザクはまだどこかで求めていた。
父親殺しは彼を護るために起こった必然だった。ああするしかなかった、そうしなければスザクは一番大切なものを失ってしまっていた。罰を与えられなかったゆえの贖罪の念はあれども後悔はしていない。しかし彼に、彼だけには知られたく無かった。隣で笑う幼馴染を優しい人間と信じ込んでいる彼だけにはこの掌を見られてはならない。気づかれては、いけない。
だからスザクは嘘をつくのが上手くなった。綺麗な彼の真似をして一人称を穏やかなものに変え彼が傍にいない七年間、護る対象を人間の命というカテゴリに変えた。まるで彼が妹へそうするように他者を慈しんだ(が、これはあまり上手くいかなかった。原因なんて分かりきっている。慈しむなんて感情は彼以外に向けられるものではないから)
そうして必死で創り上げた、枢木スザクという人間は再会した彼に大人しくなったと称されるまでに別のものになった。鏡の前で笑ってみせる枢木スザクに父親の影はないことに心のそこから安著するのと同時に再会して自分とは違い七年前と変わらない彼の様子にスザクは心から喜びを感じる。自分は彼さえ居てくれればいい、彼の為に今まで生きてきたのだ。秘匿を罪だとは思わなくなった。ただ最後に見える形で償えば良い。だからそれまでどうかこの仮面を彼の前で被り続けることを許してください。
しかしスザクの祈りは予想もしなかった形で裏切られることになる。男に、父親殺し、と罵られた瞬間、自分の後ろの彼が息を飲むのが分かってしまったらもう駄目だった。立っていられない。俺の仮面が、暴かれてしまう。
「スザク」
自分を呼ぶルルーシュの声に隠し切れない震えがあってそれに動揺を感じ取ってしまいスザクの肩が揺れた。いつの間にか場は静寂を取り戻していて先ほどの男の気配は無かったがスザクは顔を上げることが出来ない。彼の顔を見て、彼が自分を見る目を変えたことを知るのがどうしても恐ろしかった。お前はそんな人間だったのかと糾弾されてしまったら自分はもう生きてはいけないのだろう。
呼びかけに応えない自分にルルーシュが膝を折って座り込むのが分かる。そのまま彼に肩へ手を置かれた時どうにか跳ねそうになるのを必死で堪えた。項垂れて彼の言葉を待つ自分はまるで神の断罪を待つ罪びとのようだ。脳裏に浮かんだ喩えは嵌りすぎていて欠片も笑えない。
「お前が、枢木首相を…?」
殺したのか、と全ては音にしない尋ね方に彼の優しさを感じこんな時にまで場違いに暖かい気持ちになってしまう。彼が大事だ。息子の手で息絶えた父に済まないと思うことはあっても行動自体を後悔したことなど一度もない。護れたのなら、それで。いい。
諦めとも満足感とも付かぬ感情のままに無言のまま頷けば、彼は一瞬ひゅ、っと息を呑んで黙り込んでしまった。きっと今彼の紫紺の瞳は驚きに彩られているのだろう、その中にスザクに対する嫌悪や恐怖が無いことを今になってもただ祈ってしまう。こんな自分は軽蔑されても仕方ないとは思う、しかし彼にだけは脅えを含んだ感情を向けられたくなかった。それだったら最低だと蔑まれる方がスザクは何倍も楽だ。
彼が口を開く気配がする。どう自分を断ずるのか、この時点でスザクは彼が己を断罪してくれることを疑っていなかった。最低だ、と罵られるのも、お前は悪くないと優しく諭されるのもどちらの彼も予想が出来た。けれども実際はそれのどれも違う、スザクの予想もしなかったことを彼は告白する。
「俺も、同じなんだよ、スザク」
「……え、?」
何が、同じ?彼の言うことが理解できずにそれまでの恐れも忘れて顔を挙げ彼の顔を見た。スザクの真正面に座り込むような形で居たルルーシュの表情は窓から差し込む光で明るい輝きを持っている。その光を受けて彼は恍惚とした表情を浮かべていた。
状況に似つかわしくないそれに見惚れてしまったスザクは自分を叱咤する。惚けた頭を動かすが思考はますます混乱を極めて上手く考えが纏まらない。どうして彼が笑っているんだ。綺麗な彼と父親殺し、そんな自分と何が同じなのか。
幼いころスザクの疑問に答えを与えるのはいつもルルーシュの仕事だった。そしてそれは今も変わらず、途方にくれた思考へスザクが助けを求めるような眼を向ければルルーシュは優しく微笑んで応える。
「俺も、兄を手にかけた」
その声音の穏やかさはスザクに正解を教える、ルルーシュの物に違いないと言い切れるというのに、その示された”正解”をスザクの頭は理解しようとしない。まるで理解してしまったら恐ろしいことに気づいてしまうのを本能で知っているようだ。
兄に、手をかけた、と彼は言った。彼の友人の多くが彼がそう見せてきたように彼には妹しか居ないと思い込んでいるがスザクはそうでないことを良く知っている。彼は本国、いや世界中に多くは顔も知らないような母親違いの兄弟を持っていた。その中で彼の一番身近な兄と言ったら。
言葉に詰まったスザクにルルーシュは少し顔を顰めるがそれでもスザクの肩に手を置き宥めるように声をかける。
「スザク、現実から逃げるな、ちゃんと俺の言った言葉の意味を考えるんだ」
「だって、そんな…手をかけたってまさか」
「そうだよ、スザク」
俺がクロヴィスを殺した。
緩やかな彼の告白に思わず悲鳴を上げてしまいそうになるのを必死で飲み込んだ。ルルーシュは未だ穏やかな笑みを湛えたままスザクの言葉を待っている。
だってそんな、心は理解するのを拒否しているのに頭はそれに反して勝手に理論を組んでゆく。クロヴィスを手にかけたと、エリア11の総督だった彼を殺したと、彼と同じ告白を大衆の面前でしたのは。
「君がゼロ…?」
「よくできました」
もっとも導き出したくは無い答えを掠れた音に乗せて尋ねればすんなりとルルーシュは肯定してまた緩く笑う。クロヴィスを殺した犯人なんてスザクが一番良く知っている。だって自分は彼に助けられてしまったのだから。それが、まさか。
自らの危険を顧みず自分を助けてくれたのが彼だったことを喜ぶ気持ちと、ゼロを憎しみの対象としていた戸惑いに上手く言葉が紡げなかった。一つ間違えていたら自分は彼を殺してしまっていたかもしれないのだ。そんな恐ろしいこと、考えただけでゾッとする。彼は自分を追い詰めた機体、ランスロットに登場していたのがスザクだとは気づいていないようでそれだけが今は救いだった。彼が今まで生きていてくれて本当に良かった。
今スザクが言及すべき問題はそこではないと冷静な人間が居たならばそれを指摘しただろうが生憎この場にはスザクとルルーシュ二人だけしか居ない。スザクはただ純粋に大事な人間の無事を喜んだ。俺は、世界よりたった一人の人間が大事なんだ。それは七年前も今も、何も変わらないスザクの根底にある真理だった。
「ごめんな、でもこれでようやく俺もスザクに触れることが出来る」
「触れ、る?そんなの」
「だめだったんだ。俺の手はもう汚い、スザクはこんなに綺麗なのに」
綺麗なのに、少し寂しそうな顔をしてそういったルルーシュにスザクは愕然とする。綺麗なのは君のほうだろう?自分がルルーシュに手を伸ばすのを躊躇うのを、まるで真似たようにルルーシュがスザクへゆっくりと手を伸ばす。その指はスザクへ触れる少し前に一瞬戸惑うように揺れて、それでも動きを止めることは無くそのままスザクの形を確かめるように頬をなでた。母親が小さな子供にそうするような仕草にスザクは安らぎを覚えて眼を細める。人のぬくもりに触れるのなんて本当に久しぶりのことだ。それが彼だと言うことが幸福で仕方なかった。
「俺たちを護ってくれてありがとう、」
そのまま頭を抱えるように抱きしめられて視界が彼の纏う制服の黒一色に染まる。その闇の中でありがとう、とその言葉だけがスザクの心を支配していた。ルルーシュに父親を殺したことを知られてしまった。けれど彼もスザクに兄を手にかけていた事とそれ以上に大変なことをスザクへ打ち明けてくれた。そして何よりルルーシュはスザクの過去を知っても自分を見る目を何も変えはしなかった。優しいルルーシュ、何時までたっても変わらないスザクの聖域。それはなんと言う愛の名前だろうか。
「ルルーシュ、俺は君の傍に居ていいのかな…?」
「当たり前だろう!?スザク、俺たちは二人で居ないといけないんだ、だって、二人でいなければきっと幸せなんてどこにも見つからない」
彼の言葉に離れていた七年間を思い出す。惰性の様に生きてきた七年の月日よりも、たった一年にも満たない幼少のあの時間が幸福に溢れて煌いている。そうだ、自分たちは離れてはいけない。離れてしまったらきっと悲しみと罪悪に囚われて前に進めなくなってしまう。
けれどもし彼の誰よりも傍で過ごし護り生きていくことが出来たらどんなに幸せだろうか。彼を思うあまり父親を殺した自分にはそうして死んでゆくのが何よりの幸福で同時に何よりの罰になるだろう。(ああルルーシュ、君の言うことは何時も正しい)自分は真実彼の騎士になりたかった。幼いころスザクが夢見たそれはきっと彼も受け入れてくれる。
(やっと生きてゆく理由が見つかった。)
スザクはルルーシュの腕の中で瞳を閉じる。視界を放棄したことで一層彼のぬくもりが伝わるような気がしてそれに酷い安心感を感じた。記憶すらろくに残っていない母親の腕の中のようで、思わず甘えるように頭を彼の胸に摺り寄せれば彼の笑う気配がする。
「ルルーシュ、俺は君が大好きなんだよ」
腕の中から伺うようにそう告げれば不意打ちのそれに驚いた彼の表情が可愛らしくてスザクは思わずキスをした。あれ程触れるのを躊躇ったのが嘘のようだな、と思う。もちろん今もまだスザクの中でルルーシュが絶対不可侵な存在であることに何の変わりは無いのだけれど、きっとスザクが前のように触れることを躊躇うことはもう無いだろう。
(だって、)(世界が俺を許してくれた)
だからスザクは美しいものに手を伸ばす。呆気にとられている彼が怒り出す前にとりあえずもう一度。