すっかり日も長くなった夏場時だというのに辺りは既に夕闇に包まれ始めていた。神社の歴史と共に育ってきた木々と高い山はあっという間に太陽を隠して麓の民家の明かりすら届かなくしてしまう。
そんな中をスザクは一人で家路に向かっていた。スザクは何時だって一人きりだ。枢木の跡取りとして不自由なく奔放に育てられたが友人だけは作る機会に恵まれなかった。家には年の近い少女が一人居ることが唯一スザクの孤独を慰めたが彼女はスザクと共に野山を駆け回れるような立場の人間ではないらしい。彼女と共に居られるのは枢木の家の中だけで彼女は外には滅多に出なかった。彼女は何時も家でスザクの帰りを待ち、季節の移り変わりの様子をスザクから聞くのを楽しみにしている。
だからスザクが一人で居ることに楽しみを見つけようとしたのは必然的なことだった。どこかで友達は要らないとさえ思っていたのだ。(けれどそんな高慢さがこんなことになるとは思わなかった)人との接し方が判らなかった。そう言って何人の人間が納得してくれるのだろう。分からない事を知っていたのならばこうなる前に学ぶべきだった。そうすれば自分は今こんな気持ちになることは恐らくなかったのだろう。
苦い気持ちになって目を閉じれば瞼の裏にあの兄妹の姿が浮かんでスザクを苛んだ。己の迂闊さ浅はかさで他人を傷つけた事実が後悔ばかりを生んでいる。深く考えずに人へ向けた己の言葉が、あの時確かに他人を傷つけたのだ。その事実が受け止めきれず謝罪の言葉を言い捨てるようにして逃げてきてしまったがそれが彼らに届いたのかすら判らない。盗られた、と思った場所はもうスザクの物ではなくなっていた。あの瞬間に彼が必死で妹のために作り上げようとしていた居場所を奪い取ったのは間違いなく自分のほうだ。
踵を返せば彼らの居る場所には直ぐに辿り着くだろう。けれどスザクにはその一歩を踏み出す勇気がなかった。また自分は酷いことを言ってしまうんじゃないのか。彼らが自分を拒絶するんじゃないか。もしあの兄妹の兄がスザクを見る目に敵意を持っていたらきっと平静ではいられない。薄暗い蔵の中でも鮮やかな紫紺を思い出して想像に震える。怒りに染まった紫はスザクが知るどんな色より深く澄み渡っていた。
出会い頭に暴言を浴びせたスザクにも冷静に接していた彼が逆行したのは妹のためについた嘘をスザクが暴いた時だけだ。数十分にも満たない時間だったけれどもそれでスザクは彼が自分自身のために他人を憎むことはないのだということに気づいてしまった。誰かのために感情を乱す彼がスザクにとっては新鮮で同時にとても不可解だ。妹へ害を与えるものを純粋に敵とする彼の優しさと実直さはスザクの心に残り罪悪感を与え続ける。自分は彼の触れてはいけないところへ踏み込んでしまったのだ。上手に仮面を被った彼の、それでも唯一覆いきれなかった心の大事な場所。車椅子から必死で兄を庇おうとした少女の姿を思い出してスザクは唇を噛み締めた。
「スザク?」
突然呼ばれた声に虚を付かれて思わず肩が跳ねる。見れば神楽耶が母屋の玄関から出てきたところで気遣うように此方を伺っていた。日が暮れても帰ってこないスザクを心配してくれたのだろう、家まであと数歩というところで立ち尽くしていたスザクに戸惑ったようだがこれといった異常がないことを知ると彼女は穏やかに微笑んだ。そしてお帰りなさいとスザクを迎える。そんな彼女に何か言わなければと思うのだが今日に限って上手く言葉が出てこない。何時もどんな風にこの出迎えを受けていたのかすら忘れてしまった。スザクがそれまで世界だと思っていた物はもう無いのだ。
スザクの精一杯の笑顔はきっと不自然さを拭いきれなかっただろう彼女の表情が少し強張ったのが薄闇の中でも判った。彼女はゆっくりとスザクに向き合う。これは彼女が何か物事を見極めようとするときの癖のようなものだと知っている。
「あの国、ブリタニアから来た兄妹に逢ったのですね?」
「……」
「突っかかって行ったんでしょう、酷い顔をしていますよ」
違う、とスザクは首を横に振るが「違いません」と神楽耶は切り捨てる。言い切る口調にムッとして睨んでみても相変わらず彼女は穏やかに微笑んだままだ。凪いだ海のようなその笑顔はスザクをどうしようもなく意固地にさせる。
「貴方の怒鳴り声が聞こえました」
「嘘だ!そんな大声じゃなかった!!ここまで聞こえるわけ無い!!」
「ええ嘘です。聞こえませんでした」
「って……え?あ!」
しれっとした彼女の様子にカマを掛けられたとようやく気づいて己の迂闊さにホトホト嫌気がした。一日に何度もこんなことを思い知らされるなんて沢山だ。
すっかり項垂れたスザクに神楽耶が、あらあらと苦笑する。そしてゆっくりと諭すようにスザクへ語りかけた。
「あの兄妹は私たちと同じですよ。人種のほかに何も変わりはありません」
「そんなの……知ってるよ」
彼らが自分たちと何も変わらないだなんてスザクは先ほど思い知らされたばかりだ。そうだ思い知った”ばかり”だ。自分はそれまでそう思ってはいなかったのだから。だからあんな酷いことも平気で言えた。けれど今は違う、今はもうあの兄妹の間にあるお互いを思う気持ちも暖かさもスザクは全部知ってしまった。だからこんなに苦しいんだ。
訥々と吐き出す言葉に神楽耶は何も言わない。ただ黙して言葉を受けている彼女にスザクは救われたような気持ちになる。きっと自分は誰かに聞いて欲しかったのだ。そして誰かに許して欲しかった。本当の許しは彼らからしか受けられないと分かっているのに。
「今もまだ、彼らのことが憎いですか?」
「……憎くなんて無い、そんな事思ってない」
「なら大丈夫でしょう?早く謝ってらっしゃいな」
神楽耶はスザクの懺悔に対し何も言及しない。怒らない代わりに許すこともせずただにっこりと笑ってスザクの背を押す。その時の彼女の言葉には何時もスザクに前を向かせる力があった。そしてその先にはいつも光が見えるのだ。それはスザクを優しい気持ちにさせる。今もまるで希望が見えるようだった。スザクの言葉を彼は聞いてくれるだろうか、そしていつか話を聞いて笑ってくれるだろうか。そしてなによりもまず、
「…許して、もらえるのかな」
「真摯な言葉は人の心へ届くものです。そして気持ちは音にしないと伝わりませんよ、それに……」
「それに?…って、痛ったい!痛い!神楽耶!!」
それに、と続く言葉は無く代わりだと言うように無言で頬を抓られる。滅多に無い彼女の行動に付いて行けずだた痛みだけを訴えたが彼女の手の力が緩むことは無い。微笑んだままスザクの頬を引っ張り続ける彼女に、初めて怒っているのだということを知った。
「まず貴方が彼らと仲良くならなければ、私も彼らと仲良くなれないでしょう!」
私はここから離れることが出来ないんですからね!と憤慨したように話す様子に彼女がブリタニアからの客人を密かに楽しみにしていたことを思い出した。国の上に立つ人物に偏見が無いことはいいことだろう、しかしどうにもこの少女は好奇心が強すぎるのではないか。そうして被害をこうむるのは何時だってスザクだ。
「顔は見たのでしょう?どんな方でしたか?髪の色は?瞳は?私たちとは違うと聞いています、ねえスザク」
早く仲良くなってこちらへ連れて来て下さいな。無邪気にはしゃぐ彼女の願いはとても可愛らしいものだろうけれどそれはスザクにとっては大仕事だ。簡単に出来たら苦労はしない、そう思うけれど確かに先ほどに比べたら気持ちが前を向いているのは事実だ。
あの蔵はスザクが自由にしていたくらいで殆ど使われていなかったものだから当然人が生活できるような環境ではない。自分だったら生活どころか一晩過ごす事だって御免被りたいところだけれども彼らは少なくとも暫くの間はあそこで生活をしなければならないのだ。其れには相応の準備が要る。電気に毛布、それと今晩食べるものも何かあったほうがいい。まったく今が夏でよかった。必要なものを考えながらそれを持って彼らを訪ねる自分を想像する。きっと初めは彼に酷く警戒されるだろうが仕方ない、それは自分が悪いと分かっている。もう一度ちゃんと謝って、受け取ってもらえなくても物を置いてこよう。彼は妹を大事に思っているからスザクを信用せずとも役に立つ道具は使ってくれるはずだ。
そんな事をするのも自分から謝りにいくのも全て初めての事だった。不安と緊張で心臓が五月蝿いくらいに音を立てるが嫌な感じはしない。友達になるんだ。そして絶対俺が守るんだ。それで
「笑ってもらうのは、絶対俺が最初なんだからな!!」
早足で家に向かうスザクが零した決意に、隣の神楽耶が優しく微笑んだ。