何もかもがまるで異世界のような場所だった。一段高い場所に設けられたコンピューターの下では今も忙しく働きまわる作業員の姿が見えてミレイは居心地悪く身を揺する。着飾った自分が配線が張り巡らされた無機質な空間で酷く浮いてみえた。変わり者だとは聞いていたがまさか此処までとは思っていなかった己の考えの甘さに頭の中で舌打ちし、それでも表面はにこやかに取り繕って見せる。それは目の前の男へ対する意地の様なものだったのかもしれない。当の男はミレイに関心を示す様子はなく先ほどから目の前の白い機体、ランスロットと言ったか、のメンテナンスに夢中だ。きっとこの男は人間に愛情ではなく興味を向ける人間なのだろう、そしてその興味すら自分に向けられることは無い。結婚しよう、その言葉をまさかあんな無感動な声音で言われるだなんて思っていなかった。自分にだって恋をして当然に愛した人から幸福を持って人生を共にして欲しいと告げられる夢を持ったことだってあったのに。情けない現実に気を抜けば泣きそうになっている自分に気づいて驚いた。私にもまだこんな可愛げが残ってたのか。すっかり可愛げが無くなった、そう顔をしかめた幼い彼の姿を思い出して少し心が安らぐ。
強くあろうと決めたのはあの死んだと聞かされていた少年と再会してからのことだ。思わず泣いて抱きしめた自分に困ったように笑った彼を見て守らないといけないんだと感じたその決意はミレイを必然的に強くさせた。彼とその妹があの箱庭の中で一時でも幸福を享受できるのならばどんな苦労も厭わない、そう決めたのはミレイ自身だ。だからこの見合いだって、そうして手に入はいる地位だって全て彼らのために捧げる。
「そういえばさぁ」
それまでの沈黙を破り間延びした男の声がミレイの思考を遮った。それに内心苦々しく思いながらも勤めて穏やかな表情で男へ向き合う。この男、悪い人間では無さそうだがどうも付き合うにはコツがいりそうだ。
そんな事を思われているとは露も知らない男はミレイの顔を観察するような特有の目をして眺める。そうして楽しそうに歪められた薄水色の瞳はどこまでも酷薄な印象をミレイに与えた。その色を変えないまま男が口を開く。
「アッシュフォードが大事に守ってきた宝石、見せて欲しいなぁ」
「!」
何でも無いことのように言われたそれに衝撃が走って一瞬息が出来なかった。男が何を言っているかは痛いほど理解できる。アッシュフォードが大事に、守ってきた、そんなものミレイは一つしか知らない。
誤魔化すことなど許さないというように愉快そうに笑う男に初めて恐怖を感じた。真っ直ぐに男を見ていられなくて初めて視線を逸らす。膝の上で握り締めた手は白く変色していたがそれでもミレイの震えを隠してはくれない。それでも、
「なんの、ことですか」
それでも、となけなしの意地だけで言葉を紡いだ。私が守らなければ誰が彼らを守るというのか。もう誰も彼を傷つけないで。ミレイの言葉に一層楽しそうに歪んだ男の視線に耐えられず俯いて祈るような気持ちで目をきつく瞑った。暗闇の中で微笑む紫が浮かぶ。ああなんで貴方はそんなに泣きそうに笑うの。(そんな顔をするから、私は)
家の復興も名誉も地位も要らないただ彼らが安らかに過ごせる世界が欲しかった。あの箱庭は自分が守るものだと思っていた。だからこんな所にまで出向いたというのにその事がこんな事態を招くなんて。自分の考えは間違っていなかった。此処は異世界なのだ。目の前の男は宛らその帝王か。迷い込んだアリスに助けは来ない。来ては、いけない。私の皇子は私が守る。
ねえ、と再びかけられる声を無視するわけにはいかず、恐る恐る目を開ければ視界に飛び込んでくる薄い虹彩に男が存外近い距離にいることを知って思わず身を引いた。打ち付けた肩が熱を持つけれどそんな事を気にしている場合ではない。男がゆっくりと口を開く。
「もうそろそろ返してよ、」
男の言葉はまるで遅効性の毒のようだ。じわじわと心の深いところに届き根を張り染みてゆく。思わず「やめて」と叫んで男の頬を張りたかったけれどミレイの中に残る矜持がそれを許さない。そんな小娘のような可愛い抗議をする時期など当に過ぎたのだ。ミレイの心にあるのはアッシュフォードの誇りなどではなく何も持たない兄妹の姿だけだった。誰が今更返してなんてやるものですか。あんな場所よりも私の生徒会室のほうがきっと彼は好きだと決まっているんだから。その確信はミレイを強くした。もうこんな男など怖くない。だって、あなたは彼の何を知っているというの。楽しそうに笑う顔も妹へ向けるありったけの愛情も、何も知らないでしょう?だから。
「お断り致しますわ」
憮然とした態度で微笑んでやれば男は驚いた様子も無くただ心のそこから愉快そうに笑った。そして物珍しい見世物を見るような目でミレイを眺める。その瞳に写るのは興味の色だ。どうやらミレイの態度は彼のお気に召してしまったらしい。厄介な相手に気に入られたらしいことを悟って開き直る覚悟を決めた。彼らさえ微笑んでくれるのなら。
(もうどうにでもなれってもんよ!)
おまけ
ガコンと鈍い音がして目の前でにやにやと笑っていた男が一瞬で視界から消え去った。突然のことに状況を理解できないでいるミレイにいつの間にか傍にやって来ていたらしい青い髪の女性が申し訳無さそうに頭を下げる。
「ごめんなさいね、この人少しおかしいから」
この人、というのはロイドのことなのだろう、女性の謝罪に思わず「はあ、」と気の抜けた返事を返すことしか出来ない。良く見れば彼女はロイドの頭を鷲づかみにし目の前のコンピューター画面に押し付けているではないか。ああさっきの鈍い音は彼の頭が液晶画面と衝突する音だったのかしら。上司を虐待する部下、というありえない光景にミレイの脳は正しく情報を理解しようとしない。だって仮にも此処は軍の一組織なんでしょう?ミレイの戸惑いをよそに女性は男の頭、というか髪だ、をもう一度強く引っ張って自分のほうへ向き合わせた。無遠慮に引き回される髪の毛に見ているミレイのほうが心配になってしまう。髪の毛は、痛いんじゃないかな、言える雰囲気ではない。
「ロイドさーん?あなたこんな女の子になに言ってたんですかぁ?」
「あああ、なんでもない、なんでもないです」
あの飄々とした体を崩さなかった男が必死に謝る姿はさすがにミレイの同情を誘った。ああこの人悪い人じゃないんだ。きっと女性の言うとおり少しおかしいだけなんだ。先ほどまで持っていた嫌悪に近い感情が払拭されて新たに男に対する憐憫の情に近いものがミレイの心に湧き上がる。もともと姉御肌で面倒見のいいミレイは虐げられる人間に対し非情にはなれない。だから。
「ちゃんと手綱の握り方を覚えればいいのかしらね…」
思わず音になったそれに未だ上司を締め上げている女性が綺麗な微笑みで応えた。
この話のロイドの暴走っぷりに書かねばならぬと思った変態に制裁を加えるセシルさん
(そして何かに気づいた会長)