クロヴィスは美しいものが好きだ。色彩の美しい絵画、手入れされた庭園に咲く見事な花はもちろん、野に密やかに息づく草花にだってその範囲は及ぶ。美しさに貴賎の差など無い。そして美しいという感情はとても個人的なものだろう。だからクロヴィスはその感動を人に強要しない。ただひっそりと己の心に降る至極優しい感情に微笑む。それがクロヴィスの中で何者にも変えがたい幸福の瞬間になるのだ。
その密やかな感情のことを他人に話したことはなかったが、今日なんとなく弟に話してみた。チェスをしながらのとりとめのない会話の中、どうしてそんな流れになったのかは忘れてしまったがこの弟はどういう反応をするのだろうと興味が湧いたのだ。
クロヴィスはこの弟が真実優しいことを知っている。他の皇子皇女が見向きもしない森の草花を愛でる心を持ち、妹へ届ける。彼は隠しているつもりだろうが案外誰かが見ているものなのだ。しかしその優しさは母と妹へ向けられるためのものでありクロヴィスには欠片ほどしか向けられない。今も彼は呆れた様子を隠すこともせずクロヴィスを見ていた。何を言っているんだか、そんな言葉が聞こえてきそうだ。珍しくも感情がそのまま表れたそれは彼を幼く見せ、その剣呑な様子に苦笑しつつも彼の意表をつけたことを嬉しく思う。彼は他人の前で決して仮面を脱ごうとしない。クロヴィスにこんな表情を見せるようになったのだってつい最近のことで初めて彼が本当の意味で笑ってくれたとき神に感謝すらしたものだ。たとえそれが自分を警戒するに値しない器だと判断されたからだとしても構わなかった。事実自分は彼の敵になるつもりなど毛頭ないのだ。ただ大切に慈しみたい、できることなら彼の守りたいものすらも一緒に抱え込んでしまいたい。そう思っている。ただそれだけ。
けれどそんな思いを知れば彼はきっと自分に近寄らなくってしまうだろう。彼は母と妹以外の愛情というものを信じられないのだ。そしてそれを失うことをとても恐れている。
自分がこの弟を気にかけ始めて少し経ったころだった。気にかけるといっても特別何をするでもないただ年長者がするように当たり前に自分の弟を慈しんだだけだったのだ。自分の離宮へ招き紅茶を振る舞いチェスの相手を願った。それだけだ。
しかし彼はクロヴィスを甘いと詰った。そして優しすぎると泣きそうな顔をして叱った。こんな世界で他人になど気にかけてはいけない。今度は貴方が飲まれてしまう。だから切り捨てろ。そんな残酷なことを幼さの残る声ではっきりと言ったのだ。自分よりも、幼い弟のほうがこの王宮の闇を知り継承権の順位の重さと言うものを知っていたのだろう。自分の振る舞いは遥か下位の皇子への対応としては適切でなかったのだ。
なんて酷い世界だろうと思った。こんな幼い子供にあんな言葉を吐かせる。第三皇子として何の苦労もせずに育った自分がいかに愚かであったか思い知らされた。自分の世界はこんなにも狭くぬるい箱庭だったのだ。
「だから兄上は甘いと言われるんです」
「やはりそうかな」
「皇位継承者が他人への強要を厭ってどうするんですか」
言われたそれは図らずも思いを馳せていた記憶の言葉と同じで自分は成長していないのだなと苦笑してしまう。それでもその声音に昔のような涙の色は無いことに安著してしまう自分は彼の言うとおりやはり甘いのだろう。
しかしこの弟は本当に容赦が無い。彼がその気になれば大の大人ですら弁で簡単に言い負かすことができるだろう。現にクロヴィスは口でこの弟に勝てたことが一度も無いのだ。心を許しきったらしい彼は二人きりの際にはクロヴィスへの遠慮と言うものがなくなった。敬語は崩れないものの交わす言葉は対等なもので、それがクロヴィスはとても嬉しい。
聡明な弟が好きだ。彼の知恵は決して攻め入るためでなくただ己の世界の保持のためだけに生かされる。己の懐に入れたものに対してはどこまでも情深いところは上の姉に通じるものがあるだろう。そういえば彼女もこの弟のことを気にかけていた。幼いのにその甘さを感じさせない、そう褒めていた彼女はその弟がどんな顔で笑うかなど知らないだろう。賢い彼女のことだから弟の見せるそれが本物ではないことを見抜いてはいるだろうが言ってしまえばそれだけだ。そう思うと何だかとても気分が良い。己にだけに許された幸福は人を愚かにする。
「それでもそんな私が嫌いでないだろう?」
「…は?!」
珍しくも少し強気に出た兄の発言に反応しきれず顔を紅くした彼や、この後向けられるであろう照れ隠しのための冷たさを装った瞳ですら誰も知る必要は無い。母や妹へ慈しみの表情を向けている彼がそれ以外の年相応の顔を素のままにさらすのは今のところ自分の前だけだろう。
クロヴィスは美しいものが好きだ。そしてそれを共有することを好まない。ただひっそりと自分だけが知っているという優越感に微笑むことに喜びを感じるのだ。クロヴィスの弟は美しい黒髪の少年だった。私の黒い花。そして今日もクロヴィスはひっそりと微笑む。幸福は、ここに。